SDGs(持続可能な開発目標)セミナーin仙台
2013/12/9
リオ+20セミナーin仙台
リオ+20 Before After ~ハタチを振り返る、地球サミットからの20年~
2013年12月9日、東北大学片平キャンパス
12月9日(月)に仙台市にて、昨年行われた国連持続可能な開発会議(リオ+20)を機に、地球サミットが行われた1992年から現在までの20年強を振り返り、またこれからの20年について考えることをテーマとして、リオ+20セミナーが行われました。
最初に、東北大学大学院文学研究科教授、公益財団法人みやぎ・環境とくらしネットワーク(MELON)理事長の長谷川公一先生より、「世界・日本・地域の20年、これからの20年~環境問題と市民活動の歩み~」といった題名で基調講演がありました。
まず長谷川先生は、国連が環境について重要な会議を開くようになった原点から紹介していただき、まず1972年の国連人間環境会議(ストックホルム会議)について触れました。このストックホルム会議は1972年6月5日から16日まで行われたので、この会議を記念して毎年6月5日は世界環境の日に、6月は環境月間になりました。また当時の時代背景からも、人類が月面着陸に成功するなど科学技術の恩恵を感じる中で、ローマクラブが1972年に地球が今後直面されるだろう環境問題をコンピューターシミュレーションで示した『成長の限界』を発表したことや、その後に起きたオイルショックなど人間が環境問題を重要視するきっかけがたくさん生まれたのがこの時代であるとのことでした。
次に、1992年に行われたリオサミット(環境と開発に関する国連会議、地球サミット)に話が移りました。1970年代に予想されていた環境問題が1980年代から実際に現れるようになり、東ヨーロッパ、特にドイツで酸性雨問題が深刻化したこと、1986年には旧ソ連のチェルノブイリで発生した原発事故、1987年に発効されたモントリオール議定書やブルントラント委員会の報告書「Our Common Future」など、人々が環境問題に関心を持つ機会が増えたことが、地球サミットの開催のきっかけとなりました。
このような影響を受けて1992年に開催された地球サミットですが、今振り返ってみると世界大戦後世界が一番希望に満ちていた時代でないかとのことでした。1989年から1991年までに冷戦が崩壊して、政治的激変が起きて環境問題への関心がさらに高まったほか、21世紀への期待が高まりヨーロッパでもフランスやイギリスなどで次々政権交代がおきて、様々な国際問題に取り組みやすくなりました。反面、日本ではバブルの崩壊でさほど明るい環境ではありませんでしたし、当時の宮沢首相が地球サミットに欠席したことで顰蹙を買うなど他国とは少し温度差を見せました。当初まで国連史上最大規模の会議であった地球サミットには、172か国から述べ4万人以上が参加し、非政府機構(Non-Governmental Organization、NGOs)といった言葉も普及しました。宮城県でも、当初職員を5名ほど派遣し、その成果がMELONの設立に影響したとのことでした。
地球サミットは、期待が高かった分多くの成果を残しました。現在の環境政策や国際社会における環境対策の原点となる「共通だが差異のある責任(CBDR)、第7原則」や「予防原則」(第15原則)」などが含まれた環境と開発に関するリオ宣言のほか、リオ宣言の実行のための行動綱領であるアジェンダ21が採択されました。アジェンダ21の採択を受け、その後各地域レベルに落とされ日本全国47都道府県でローカルアジェンダ21を導入したほか、宮城県や仙台市でも環境基本計画を策定(1997年3月)しローカルアジェンダ21の実行に向けて取り組みが始まりました。また、気候変動枠組条約や生物多様性条約も、地球サミットで交渉を終えて採択されました。
このような地球サミットの成果を受け、国内でも様々な取り組みが始まりました。既存の公害対策基本法を置き換える形で1993年11月に環境基本法が制定されたほか、1997年6月には当時の橋本首相の決断で環境影響評価法が制定されました。このように環境問題に対する取り組みが盛んになったのは、1972年以来の第2の波であったようです。またこのような法律の整備のみならず、阪神淡路大震災でのボランティアの経験や国際協力分野での一定の成果とともに環境分野での市民社会の活動が評価され、1998年6月に特定非営利活動法が制定されNGOなどが正式に法律で認められ支援を得られる基盤ができました。また、環境に対する研究も組織化され、環境社会学会(1990年5月)、環境敬愛・政策学会(1995年)、環境法政策学会(1997年)などが次々と設立されました。
しかし、このような期待は21世紀に入って急変しました。1994年に南アフリカでマンデラ政権が発足し、アフリカが国際社会に復帰したことを記念して2002年のリオ+10(ヨハネスブルグサミット)は南アフリカで開催することとなりましたが、2001年9月11日に発生した同時多発テロで全ての流れが変わりました。以前の議論で、20世紀は経済成長と戦争の世紀であったことを反省し、21世紀は環境と福祉の世紀にしたいといった思いがありましたが、同時多発テロが大きく影響し、現在に至ってもそれほど大きな成果は得られなかったのではないかと考えられます。しかしながらも、その後も様々な取り組みは続いていて、2004年6月にドイツ政府主導で自然エネルギー国際会議が開かれ、また同年12月にはケニア出身のマータイ氏が環境活動家として初めてノーベル平和賞を受賞しました。2006年から米国の元副大統領であるアル・ゴア氏の『不都合な真実』が世界的にヒットし、2007年12月に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とアル・ゴア氏がノーベル平和賞を共同受賞しました。しかし、2008年9月以降の世界的経済危機により、また雰囲気が一転し、2009年12月の気候変動枠組条約第15回締約国会議(COP15)にて京都議定書以降の枠組みについて合意を保留し、気候変動問題の解決に向けた国際交渉は難関に封着しています。また、日本では2011年3月11日に東日本大震災と福島原発事故が発生し、大きな社会的危機に直面しています。
そんな中で、昨年6月にブラジル・リオデジャネイロで開催されたリオ+20に向け、MELON・EPO東北(東北地方環境パートナーシップオフィス)として東北3県の被災者5人のメッセージを抜粋して英語の冊子化し、現地で300部ほどを配布しました。しかしながら、日本政府が設置した「ジャパン・パビリオン」では、東日本大震災を重点的に取り上げる中で福島原発事故からの避難者の姿は全く見つけることができず、福島選挙区から当選された当時の玄葉光一郎外務大臣も本会合の演説の中で福島原発事故については一言も触れませんでした。反面、女性グループやNGOグループからリオ+20の成果物である「私たちが望む未来(The Future We Want)」に原子力発電に対して言及していないことに対して強い批判がありました。リオ+20の主題であったグリーン経済についても、「突っ込んだ議論がない、リーダーシップがない、新しい仕掛けがない」ということ、また議長であったブラジルの大統領が「持続可能な発展はまず雇用創出を意味する」と発言するなど国間で温度差が見られ、結果的にリオ+20が過去の会議と比べ大きな成果を得ることができなかったと分析していました。
これまでのこのような歴史を踏まえ今後の20年を考えようとすると、今の社会がとても速く変化しているように取られているが、過去と比べて本当にそうなのか疑問があるとのことで、日本の歴史の中ではたった15年間で大きな変化を生み出したことはたくさんある(織田信長の上洛から横死まで、関ヶ原合戦から徳川家康没まで、ペリーの浦賀来航から明治維新まで、高度成長期の15年など)といった分析を披露しました。それを踏まえて、はたして今から15年前の1998年から今まで、社会はこれらの15年ほど激変したのか?ということで、様々な分析を披露しました。これからの20年を考える際に、長谷川さんは政治に注目し、ねじれ国会の下で首相の短命が続くか、一強政党の下でのタカ派路線かのどちらかにしか進んでいない政治や、中国・韓国で内政上の不満の矛先を隣国非難に向けていることで今後も緊張関係が続くことが予想されるなど、まだまだ社会的課題は山積しています。その中で、日本が東日本大震災を経て経験した、強靭な社会や復元力のあるコミュニティづくりで持続可能なコミュニティを実現する必要があることを、今後世界へ発信すべきではないかということで基調講演は結びとなりました。
次に、東北大学大学院環境科学研究科准教授、POST2015プロジェクトテーマリーダーの馬奈木俊介先生より、持続可能な開発やSDGsに関する情報提供をしていただきました。まず冒頭では、長谷川先生の基調講演に対する質問への回答から始まりました。質問は主に「経済成長」、「原子力発電」、「南北問題」についてありました。それぞれの質問に対し馬奈木先生は、まず経済成長について、世界中で貿易自由化がますます進んでいて各国がお互い経済が密接につながっていて、世界中の人々にとって特に先進国の経済安定は重要であり、日本を含む先進国が財政赤字危機といわれつつも人々から安心を買って前に進んでいるのが現状であると説明しました。各国が自国経済にお金を投入して経済活性化を狙うため、借金が膨らんでいく一方であり、すぐの方向転換は難しいとのことでした。
原子力発電については、現在の議論は原子力発電のコストが今まで安く見られてきたことが大前提で、事故を機に変化していて今後急速に太陽光発電など再生可能エネルギーが普及すれば、例えば10年後は原子力発電よりも再生可能エネルギーの方が安くなるかもしれません。しかしながら、現時点ではまだどちらが安いか言い難く、だからどこに投資すれば良いかもよくわからないのが現状としてあるとのことでした。再生可能エネルギーの普及が進んでいるドイツでは、自前の原子力発電所は持っていませんが、原子力発電を持つ他の国と系統がつながっていることで国内での原子力発電をやめることができました。逆に、大陸から離れているイギリスでは、自前の系統で電力需給を満たす必要がありますが、北海の油田の産油量が減ることから地球温暖化対策に力を入れ、その達成のために原子力発電に力を入れています。日本は、その両国の真ん中を歩いていて、今の政権は原子力の再稼働を経てなんとかしたいと思っているとのことでした。このような過程を見てみると、日本の首相は非常に強い力を持っていて、国会を通さずにものごとを決めることのできる力があり、国における地位は他国と比べても高いと言えます。しかしながら、15年間首相が11人も変わっていることが示すように、トップのリーダーシップが発揮されていないことが現状であるといえます。このような状況は今後も変わらず、地域レベルでどのように進めていくか、地域でオプションを考え、決めていく必要があるとのことでした。また、日本の場合エネルギーに対する支出が高く、貿易黒字の半分が燃料費で消えていますが、原子力発電を無くすことで交渉のカードをひとつ失い、燃料価格がさらに上がってしまうことも考えられますが、本当にそうなのかはわからないとのことでした。健康リスク面でも、原子力発電は石炭発電より健康リスクは少ないですが、だからといって放射能の問題がクリアではないとのことでした。
南北格差についても、世界中で南北の格差は広がる一方で、スーパーエリートが多くの利益を得て、所得再配分はほとんど進んでいないのが現状であるとのことでした。
このような状況を踏まえ、現在馬奈木先生がプロジェクトのテーマリーダーを務めているPOST2015プロジェクトの活動や持続可能な開発目標(SDGs)について説明がありました。既存の開発目標であるミレニアム開発目標(MDGs)は、世界中の貧困半減など8つの開発目標を設定しましたが、先進国のお金を途上国に流して何とかしようとして、取り組みの中には成功も失敗もありました。その失敗から学び、代案として国全体の目標を設定するよりはローカルでものごとを考える必要があるとのことでした。より先端的な提案をする人々は、ローカルレベルで目標設定をすることを提案しているそうです。その場で活動している人々こそが問題の解決策に一番詳しく、反面問題を解決してほしくインターネットを通じて簡単に寄付を寄せることもできるようになり、お互いの需要をマッチングさせることができるのではないかといった意見でした。このように、政府が一方的に目標を設定して政策を進めるトップダウンより、ボトムアップ型の目標設定が大事とのことでした。プロジェクトの詳細については配布したパンフレット(http://www.post2015.jp/dl/pamphlet_jp.pdf) を参照していただきたいですが、このプロジェクトの意義は学者や研究者と政策の担当者の間のギャップを埋めるために一緒にプロジェクトを進めていて、馬男木先生ご自身はその中で政策評価を担当しているそうです。このプロジェクトを通じて、他にもかかわっていらっしゃるIPCCの政策評価レポートのように、今後政策の立案やその実施に役立ちたいとのことでした。
大事なことは、各国が決めて世界全体で採択する目標は小さな目標であり、コミュニティとして今後どのようにこれからのことを考えるか、例えば東北で大地震や津波、原子力発電所事故を経て、今後どのようなプロセスを経て地域の課題や解決策、その目標を定めるかが重要であるということで話をまとめました。
以上の話を受け、東北各県で行われている取り組みについて紹介がありました。
まず、国際青年環境NGO A SEED JAPAN未来生活nowプロジェクトの鈴木亮さんから、福島県を中心に活動している取り組みや有機農業、ライフ・エコノミーについて紹介がありました。鈴木さんはまず経済のあり方を、環境・人権社会性を考慮しない「ブラウン・エコノミー」、環境と経済成長の両立を目指す「グリーン・エコノミー」、生命の持続可能性を第一目的とする「ライフ・エコノミー」に分類した上で、現状としてはブラウン・エコノミーの仕組みがほとんどでグリーン・エコノミーの取り組みはまだ少数、ライフ・エコノミーの取り組みはほとんどないと主張しました。その中で、未来生活nowプロジェクトとしては、グリーン・エコノミーが経済活動の過半数を占め、ライフ・エコノミーを打開させることを目指しているそうです。ライフ・エコノミーの事例として、日本の場合小規模の有機農家がやってきたことをじっくり学ぶことで幸せな地域を作ることができるとし、既に全国の100地域以上で有機農業を通じて地域づくりに取り組んでいるそうです。しかし大きな変化をもたらすためには都会でこそ、また生活レベルでモノ・カネ・情報において行動を始める必要があるということで、例えば学校の給食で使われる食材はなるべく国産のものを使うようにしていますが、地元の有機農産物を使っているところはほとんどないようで、このようにもう一段階進展させるための参加の仕組みを作ることが重要であると考えているようです。このような事例や考え方を踏まえて、持続可能な地域目標を各地域で考える際には1)連帯を通じて弱者の幸福度を上げ、2)不公平をなくして平等を実現し、3)多様性を尊重し環境を守り、4)世界の発展に貢献し、世界の圧力に耐性のある選択肢を作り、5)これらを可能とする行動に移ることが大事であるという意見を披歴しました。
次に、地域創造基金みやぎ事務局長の鈴木祐司さんより、活動の紹介がありました。地域創造基金みやぎは、震災からわずか3か月後に設立された財団で、お金の流れを変えることから地域や社会の課題解決を目指しています。現在は非営利性の事業に対して5年間で合計8億を支援し、ソーシャル・ファイナンス分野においては5年間で合計16億を支援することを目標としているそうです。震災復興に向けて様々な取り組みが行われてきて、今後も引き続き多くの取り組みが必要ですが、多くの助成基金において震災特別枠はあと2年でほとんどが終了し、その壁を乗り越えて取り組みを継続していく必要があります。阪神淡路大震災からの復興は18年が経過した現在でも終わったかどうか定かでないですし、米国南部に大きな被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの災害も8年が経過してやっと立ち直るかどうかの状態であり、東日本大震災からの復興はまだまだ遠く、これからの先が長いです。地元のお金をどのように回し、地域内や地域間の資金の流れに変化をもたらし、震災復興を含め社会が直面している課題を解決していきたいということでした。
最後に、岩手子ども環境研究所代表の吉成信夫さんより、岩手県岩手郡葛巻町で実施している「森と風の学校」の取り組みに関する紹介がありました。吉成さん自身は1992年の地球サミットにも参加していて、「もう20年たったのか」と所懐を述べました。吉成さんはもともとビジネスコンサルタントでしたが、地球サミットを境に「極大から極小へ」と移り、葛巻町に移住したそうです。現在住んでいる地域は12世帯しかいないほど小さく、もう雪が積もっているような環境の地域ですが、このような地域から何を考えて発信すべきなのかを考えたく、どうやって具体的に手探りできるかを考えて、現在の地域に移住して活動を始めたそうです。東京で活動するときは講演をして人々に伝えればよかったことが、現在コミュニティを対象に何かをする際はこのコミュニティに入らないと何もできないことを感じたようです。その他、「森と風の学校」の取り組みとともに、その中から感じたことを共有しました。例えば、学校の屋根には太陽光パネルを設置していますが、ある日学校の子どもが「登ってみたい」といい一緒に登ってみたら、子どもがその上に寝転がって微笑む顔を見たら、「あ、ここは安全な場所なんだな」と感じたことや、葛巻町全体として再生可能エネルギーの導入によって電力自給率が160%を超えていたにも関わらず東日本大震災で電力が止まってしまったことを経験し、さらに生活をデザインしなおさなくてはならないことを感じたそうです。また最近では地域の発信手段としてマイクロラジオにも参加しているようです。
以上の各地域からの話題提供を踏まえて、続いてディスカッションが行われました。予定ではグループワークを予定していましたが、時間の制約や質疑応答など会場全体として議論する機会が少なかったため、全体ディスカッションに変更となりました。会場からはそれぞれの発表に対して多くの質問が寄せられました。
まずは、MDGsやSDGsに関する議論があり、国連で議論しているようなグローバル目標に期待しすぎず、各地域が自らゴールや手段を選び設定することが重要であるとのことでした。また、地域から大都市への人口流出を懸念する声もあり、小さなコミュニティの存続に関する疑問も浮かびましたが、吉成さんは経験に基づき、震災時の葛巻町の状況を事例としてあげました。葛巻町は森林が豊富な町で、未だにまきストーブがほとんどを占めていてエネルギーの面で困ることはなく、水も地域の水が昔から飲めたから特に問題はなく、食べ物も3~4月分ほどは備蓄しているが、これで地域の豊かさを図ることはできず、都心部集中の現象が岩手県の中で進んでいるのは事実であってもだからといって町の人々が住んでいる場所から去るわけでないということでした。人口流出が問題になっていても、吉成さんの地域は昭和30年代から世帯数も変わらず、そのような地域もたくさんあるとのことでした。
ディスカッションの最後には、長谷川先生の講評がありました。長谷川先生は、吉成さんの報告の中にあった言葉である「東北の未来は、懐かしい未来」を引用し、この「懐かしい未来」がどの程度広がるかについては少々悲観的でありつつも、小さな取り組みをネットワーク的にしてどのようにつなげるかが課題であり、その成果を大きな声にしていくことが今後の課題であると述べました。懐かしい未来が万能ではないことを念頭に入れつつも、厳しい時代の中で手がかりを見出して進めていく必要があり、「魔法の鍵はない」という言葉で結びました。
◆開催概要◆
日時:2013年12月9日(月)18:30~20:30
会場:東北大学片平キャンパス北門会館2階エスパス
対象:本テーマに関心のある方ならどなたでも(30名程度)
主催:環境パートナーシップ会議(EPC)
共催:公益財団法人みやぎ・環境とくらしネットワーク(MELON)
協力:東北大学公共政策大学院小森研究室
※当イベントは、平成25年度地球環境基金の助成を受けて実施しました。